オ シ ョ ウ ガ ツ

2010年の23時20分に着いて,車を止めて、23時30分に本堂の所定の位置に着きました。

お坊さまが、あらかじめ席を取って置いて下さった場所に座る。待つこと30分。
0.00分、きっかり元朝護摩の儀式は始まりました。

暦的に観ると、私は今年「八方ふさがり」なのだそうな。
同じ星回りの青井陽治先生とご一緒に方避けをした方がよいとなり元朝護摩を申し込んだ次第なのであります。

導師さまを迎えて、外の喧噪が信じられないくらいの静けさになった。
お手元のいろいろな物のふたを取ったり、大きなお箸のような棒で器の水を附けたり。
お手元の数珠を金のぉ、、、名前忘れた、手に中に入るバーベルみたいな、
ホラ、両方が籠みたいになってるヤツ。それで数珠を擦る、小さな音。
密やかに密やかに始まったのだ。

お手元の、ベルを振る。
「ちーーーーん」何とも美しい音色であった。

そうこうするうち、頭のそり跡も青々しい若い僧が、大太鼓にバチを振り上げた。
ど〜〜〜〜〜ん  オナカの中身全てが揺るがされる。
ド〜んど〜んどど〜〜んと身体中に響き渡る。
大太鼓の音は身体中に、、イヤそんな生易しい物ではない。
腸が、胃袋が、背中が、鼓膜が、ビビリまくる深い音。

そしてホラ貝が加わった。
深川の喧噪も、お参り客を整理するお巡りさんのスピーカーも別の世界にと消えていった。

と、そのころすでに導師さまの前には美しい炎が天井を焦がしそうになっていた。

お坊さま方の力強いコーラスの中、お願いしたお札が次々とお坊さま達の手で炎にかざされる。

ノーマクサンマンダーバーザラダンセンダーマーカロシャダーソワタヤウンタラターカーマン

ずっとズーーーーットその祈りが繰り返される。深く深く深〜く繰り返される。
別世界。うーんまさしく別世界。その別世界と現実を繋いでくれるお札なのだ。


母の健在なとき、、、川口アパートメントに住んでいたときからだから、
もう、何十年、ここに通ってきていたのだろうか。
ひょっとして赤坂に住んでいた時からだったのかも知れないが、、、。

母は、大晦日の夕方から、必ず、麻雀の卓を囲んだ。

母の一番尊敬していた喜多村録郎先生の未亡人、通称「バンバ」
耳鼻科で母の生涯の主治医だった「杉村先生」
文学座なのに喜多村録郎先生の孫、、って訳で新派の演出家の戌井市郎先生。
そして二抜け(誰も抜けたがらないけど)に明治座の営業にいた「山戸さん」
と、それに母、、、芝居は美味いけど、麻雀は酷い、母だった。
このメンバーは、ネンマツの恒例行事として何十年間も母のオモリをして下さった。

隣の私の部屋では、もうひと卓、乱暴な若者麻雀が開かれていた。
市川翠扇お姉ちゃんは「あんなスローなマージャン出来ないよ」といつも若者入り。

11時30分を回る頃、久里子が遠慮がちに迎えに来る頃に年越し蕎麦が出来上がる。

負けた人はブーブーと云いながら蕎麦をすすった。
勝った人は居丈高にズルーーーっと啜った。

それから、みんな揃って、それぞれの車に乗り分けて、深川に向かったり、帰ったりした。

一体、何十年続いたのだろう?深川不動さまの初詣(?)は。

1979年10月1日、母が亡くなった年でも、鳥居を潜ってはいけないってことで、鳥居の端を横ばいになって通った。
無論、母のメンバーも「偲ぶ八重子麻雀だ」と集まって下さって母の代役を、私がこればかりは母の何十倍も立派に努めた。

山戸さんが逝き、喜多村未亡人バンバさんも逝き、杉村先生の診療所も息子さんに代替わり、とうとう暮れに戌井先生が逝ってしまわれた。

とうとうこれで、大晦日麻雀メンバーがどなたもいらっしゃらなくなっちゃった、、、
だが、まてよ、なーんだ。あっちの方で全員「そろったぁ」って喜んでるんだわ。

まず、美味しい和菓子などで、お茶を飲んで、、、話に花が。
母は、相づちを打ちながらも、早くやりたくてイライラを隠せない。
そんなことを想像したら、やたら楽しくなっちゃった。

戌井先生、さぞかし皆さん、お待ちたんでしょうよ。
あちらの世でもこちらの世でも、メンバーが1人足りなくて待つマージャン。
イライラしますものね。

マミー、良かったね。又大晦日の麻雀メンバーがやっとそろって。

お札を頂いたら、町は新しい年になっていた。

        おめでとうございまーーーーす、みなさん。

    
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by funny-girly | 2011-01-03 12:42 |

水谷八重子 タワゴト

by funny-girly
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